南飛烏鵲楼

三国志に特化して再開します(2008.04.09)
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曹植、字は子建。

言わずと知れた曹操の子にして、文帝曹丕の同母弟。初平3年(192)に生まれ、太和6年(232)年逝去。
[「ソウチ」か「ソウショク」か]の続きを読む
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だいぶ前に「諱と字」について書いたんですが、その後、色々とコメントやらトラックバックをいただいたので、幾つかピックアップ。
[諱と字について(再整理)]の続きを読む
頭をぶん殴られるような衝撃(笑)。

いや、英傑群像さんのところで、そういう記述があったのでメモ。

>劉備(りゅうび)の息子に劉封(りゅうほう 養子)、劉禅(りゅうぜん)
>という人物がいます。
>この事からだけでも、劉備は少なくとも劉封を養子に迎えた段階から
>皇帝の位というのを意識していたと推測されます。

>というのもこの息子の名前を二つ並べると「封禅」となり、
>始皇帝(しこうてい)以来の歴代皇帝達が、泰山(たいざん)と
>いう場所で行われた皇帝だけに許された「儀式」の名前になるからです。

元記事はコチラ↓
http://www.chugen.net/base/name.html

これって常識? 私が無知なだけ?(ウスくてスミマセン)

口惜しいのでツッコんでおくと、始皇帝は封禅を復活させたのであって、始皇帝以前に数多くの天子が封禅を行なっており、むしろ、始皇帝以降の方が少ない。三国までに限ると、始皇帝以来、漢は武帝のみ、後漢は光武帝・章帝・安帝の3人。三国の天子は誰ひとりしておらず、三国以降も数えるほどしかいない。

ちなみに封禅の概要については、下記を参照↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%81%E7%A6%85

ただ、この事実、劉備としては喧伝されたら拙いのかも。簒奪とまでは言わないまでも帝位継承の野心を早い段階からもっていたのがバレてしまう(笑)

ついでに気がついた小ネタ。

蜀志・劉封伝に拠れば、「先主が荊州にやってきた時、まだ後継ぎが無かったので、劉封を養子にした(先主至荊州、以未有継嗣、養封為子)」とあるから、史実では彼が養子になったのは劉禅生誕(建安12年、207)以前のはず。

ところが、『三国志演義』では、第34回(毛本)で甘夫人が阿斗を産んだ(建安12年春の設定)のに対し、劉封が養子になるのは第36回(建安12年の春~秋のいつか)。史実とは前後が逆になっているから、「封」「禅」の順序も崩れている。勿体ない(笑)。

『演義』がどうしてこんなことをしたかは不明というしかないけれど、劉封を養子にしたとき、関羽が「すでに子(阿斗)がいるのに、どうして螟蛉(アオムシ。養子のこと)を用いるのか」と言っているのに注目。毛宗崗なんかに言わせると、これが後に関羽の窮地に劉封が援軍を送らない伏線になっているのだそうな。

それよりも、関羽、すでに養子になっている関平の立場は?(笑)

以上、小ネタでした。

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 『三国志平話』冒頭に置かれている転生譚ですが、以前に言及したように『五代史平話』冒頭にごく簡単に触れられている他、『古今小説』(のちに「三言」という短篇小説シリーズに組み込まれ『喩世明言』と称される)という短編小説集の第31巻に「鬧陰司司馬貌断獄(陰司をさわがして司馬貌、獄を断ず)」という題で収録されています(原文の電子テキストは結構web上に落ちてます。ココとか)。

 主題は無論、前漢功臣の三国への転生なのですが、細部にかなりの異同があるので、それを中心に紹介してみたいと思います。

 まず、物語の時間が『三国志平話』は後漢光武帝の治世であるのに対し、「鬧陰司司馬貌断獄」(以下「鬧陰司」)では同じく後漢ながら、時代はグッと下がって霊帝の世、つまり三国時代の直前に設定されます。

 主人公の名も変わっています。『平話』では姓が司馬、字が仲相ですが(名は不明)、「鬧陰司」では、姓は司馬のままですが、名は貌、字は重湘となっています。「仲相」と「重湘」は同音かあるいは極めて近い発音だと思われます。

 で、この司馬貌、才がありながら運が無く世に出ることができず、すでに齢五十に達しておりました。そこである時、酒に酔った勢いで天を怨む「詞」を書いてしまいます。それが天上の玉帝の耳に入ったから、さあ大変、激怒した玉帝は司馬貌を罪に問い、召喚します。そして、問答無用に地獄に落とされるところでしたが、太白金星の取りなしによって、半日の間、陰司(冥界の裁判所)の長官(早い話が閻魔大王)の代理を務め、そこで才を示したらば来世の富貴が約束され、さもなくば未来永劫人間には生まれ変われない、という無茶な条件で働かされることになります。

 さて、司馬貌、才あるだけあって一計を講じます。ただ、漫然と案件を待っているのではなく、陰司で未解決となっている案件を解決することで才を認めさせようというのです。
 そこで下役人が持ってきたのが、以下の4つ。

(1)忠臣を冤罪にて殺した件(屈殺忠臣事)
原告:韓信・彭越・英布  被告:劉邦・呂氏

(2)恩を仇で返した件(恩将仇報事)
原告:丁公  被告:劉邦

(3)権力を恣にして帝位を奪った件(専権奪位事)
原告:戚氏  被告:呂氏

(4)危難に乗じて寿命を縮めようとした件(乗危逼命事)
原告:項羽  被告:王翳・楊喜・夏広・呂馬童・呂勝・楊武

マイナーメジャーひっくるめて、楚漢抗争オールスターという趣ですが、ここに蕭何みたいな超大物まで証人喚問した上で、司馬貌は原告と被告に何故か証人まで加えて、以下のように転生させるという判決を下します。
[「鬧陰司司馬貌断獄」(三国因覚書其二)]の続きを読む
mujinさんのところでも少し言及したのですが。

 『新編五代史平話』梁史平話巻上冒頭(ってことは、『五代史平話』の冒頭ってことですが)に、『三国志平話』冒頭の転生譚の原型と思われるものが記載されています(原文は中央研究院の「漢籍電子文献」で見られます)。

 『三国志平話』に比べ、ごく短いものですので適当に要約すると、

 劉季は項羽を殺し漢を建てたが、功臣である韓信・彭越・陳豨を疎んじ、罪を着せて族滅してしまった。これを恨んだ3人は天帝に冤罪を訴え、3人を憐れんだ天帝は、韓信を曹操に、彭越を孫権に、陳豨を劉備に転生させ、天下を三分させることとした。結果、曹操は献帝の天下を簒奪し魏を、劉備は漢室復興を企図して蜀を、孫権は兵を荊州に興して呉を建国した。三国それぞれに「史」があるゆえ、これを『三国志』というのである。

 英布が陳豨に代わり、その転生が劉備、彭越の転生が孫権、というように、短いながら『三国志平話』とは結構異同があります。
 『五代史平話』と『三国志平話』の成書年代の先後は俄には定めがたい(通説では『五代史』の方は南宋末には原型ができあがっていたとされますが)ので、継承関係はよく判りませんが、少なくとも南宋末~元にかけて、この転生譚が相当知られていた話なのは明らか。

 附記:『三国志平話』については、以前少し書いた(コチラを参照)んですが、何時の間にやらWikipediaの『三国志平話』の項が相当充実してますね。私の文章はもう要らないな(苦笑)。

 この文章を全体の何処に位置づけるかは思案中……とりあえず雑記にしときます。

 08.10.26 総目次>B三国志故事の書誌>5『三国志平話』の下に置きました。

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