平凡社新書。2006年5月10日初版第1刷。293頁。
基本的には、三国時代の人物の知られざるエピソードを、
正史『三国志』他の資料を駆使して紹介する本。
内容そのものについては、オジオンさんのブログに
極めてすぐれた紹介がありますのでそちらをご参照ください。
(特に正史未読の方には)非常に面白く読める本ですが、
演義ファン(笑)としては、かなり文句をつけたい部分があります。
大修館書店「あじあブックス」。2002年6月10日初版第1刷。181頁。
著者は北海道教育大学教育学部釧路校助教授。専門は東洋史。
ある意味、三国志ファン必読の書。
正史というものの限界を解りやすく著述しています。
歴史を書くという行為が如何に時代背景に制約を受けるか、
換言すれば「事実」を書くということが如何に難しいかの一端を見ることができます。
ただ、個人的には、本書の見解に全面的には賛同できかねる部分も。
終章「北魏・国史事件の意味するもの」で、
著者はまず事実を書き残すことが必要であることを強調しています。
加えて、「全ての時代が人間の真実の歴史である」(170頁)という言葉で、
現在に比べて過去を野蛮・未熟な時代と看做すことを戒めます。
後者については異論はありません。
しかし、前者については、疑問符を附けたいです。
個人的には。そもそも「事実」というものは書き残せるのか。
という問いが根源に置かれるべきではないかと思うからです。
歴史的事実というものは確実に存在するでしょう。
しかし、言葉がそのすべて(=事実そのもの)を記述できると考えることは
餘りに楽観的に過ぎるのではないでしょうか。
著者は言います。
>歪んだ歴史意識は、必ずや歪んだ歴史書を生み出し、そしてそれは、
>その歴史書の中に現れる人々の(要は過去の)歪みではなく、そうした
>歴史書を作り上げたその時代の歪みをこそ示すものなのである。(165頁)
ここでは、明らかに「歪んでいない歴史意識」の存在が想定されています。
しかし、そんなことがあり得るのだろうか、というのが私の立場です。
すべての言葉は歪んでいる(=文化的・社会的制約を受けざるを得ない)。
必要なのは「どのように」歪んでいるかを、
言葉の使い手・受け手が検証し続けることなのでは。
さもないと、いとも簡単に「自分は正しい」という欺瞞に陥る危険がつきまといます。
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日本文芸社。2001年6月15日第1刷発行。2006年2月25日第15刷発行。259頁。
著者は作家、料理評論家とのこと(奥付より)。『三国志新聞』(日本文芸社、1996年3月)の
編纂に携わっていた記憶があります。監修に元実践女子大学文学部教授の阿部幸夫氏。
出版後、5年で15刷ということは、三国志本としてはかなり売れている方なのでしょう。
いわゆるライターの書いた三国志本としては典型的なものだと言えます。
少し三国志に興味がある初心者が対象なのでしょう。
特定の国に肩入れしない姿勢は、見識が在るとも、平板だとも言えるような。
ただし、時々、事実誤認あり。
>なぜなら、昔の中国においては、女性の人格というものが、ほとんど無視されていたからだ。
>たしかに曹操の正妻のことは、「ベン皇后紀」という伝記になっている。しかし、それはあくまでも
>曹操のお妃で、曹丕の母親だから記載されたのであって、その他に魏の王室以外の女性の伝
>記は正史「三国志」の中に存在していない。あくまで従属物なのだ。(104頁)
前半の内容は、まあその通りだし、結論も間違いないです。ただ、後半の
「魏の王室以外の女性の伝記は正史『三国志』の中に存在していない」
というのは明白な誤り。
『三国志』呉書にはちゃんと「妃嬪伝」がありますし(巻五)、
蜀書にも「二主妃子伝」があります(巻四)。
思うに、蜀呉の皇帝の伝記は「紀」ではなく「伝」になっている(=皇帝扱いではない)というのと
混同しているのではないでしょうか。
いずれにせよ、この部分は記憶に頼って原典を確認することを怠ったことが明らかです。
刀水書房。2001年10月20日初版第1冊発行。220頁。
著者は1924年生。東大文学部東洋史学科卒業。明治大学名誉教授。
奥付の著作を見るに、魏晋南北朝〜唐代の律令制や土地制度が専門と思しい。


