南飛烏鵲楼

三国志に特化して再開します(2008.04.09)
管理者ページ 
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
気がついたら雑記ばっかりで全然『三国志演義』の話をしていない(苦笑)。取っ懸かりとしてこんな話題から。

私は意地で『三国志演義』で通してますが(笑)、よく知られているように中国では『三国演義』と称されることが多いです。

これについては、こんな指摘があります。

>現代中国ではふつう『三国演義』というが、これはこの方が語呂がよいためで
>正しくは『三国志』の演義、すなわち『三国志演義』である。
(金文京『三国志演義の世界』[東方選書、1993]p.20)


「語呂」というのは、現代中国語の単語が圧倒的に2音節(すなわち2文字)で構成されていることを指すのでしょう。だから、3文字+2文字よりも2文字+2文字の方が「語呂」がよいとなるのでしょう。

ただ、現代中国では『三国演義』が一般的である以上、「正しくは」と言うより「古くは」という方が正確かも知れませんね。
[『三国志演義』と『三国演義』]の続きを読む
スポンサーサイト
この記事の続きです。 → 「氾濫する当て字」

さて、当用漢字の制定目的は、まぎれもなく「漢字制限」にありました。
当用漢字を制定するに当たっての内閣訓令に、

>従来、わが国において用いられる漢字は、その数がはなはだ多く、
>その用いかたも複雑であるために、教育上または社会生活上、
>多くの不便があつた。これを制限することは、国民の生活能率をあげ、
>文化水準を高める上に、資するところが少くない。

出典↓(ただし、旧字は新字に改める)
http://www.aozora.gr.jp/kanji_table/touyoukanji_hyou/

とあることからも一目瞭然です。

一番率直な感想は「敗戦が餘程ショックだったんだね」ですが、それは関係なくて、是非はともかくとして意図は判ります。漢字というものが、文字としては修得困難なものであり、それが字形の複雑さもさることながら、その数に起因しているのも疑いのない事実です。

例えば、中国における識字率というのは、未だに9割とか8割とか言われているわけですが、まあ、日常的に中国語使うだけでも5~6,000の漢字が必要であって、アルファベットでOKとか、ハングルだけでOKとか、書けなくなったら平仮名でOK、みたいなわけに行かない以上、ある意味で仕方がない数字でしょうな。

ので、戦後の日本の場合、漢字制限が必要という話になったわけで、当用漢字の登場と相成ったわけですが、コイツの問題は、「当用」=「まさにもちうべき」=「これしか使っちゃならん」という漢字の癖に、「選定基準がサッパリ判らん」という点にあります。

結果、よく言われる例(というか70年代までの新聞には頻出)ですが、こんな表記が生まれてしまいました。

「女子中学生ら致される」 → 「いたされる」って何?
「経済状況の悪化を危ぐ」 → 「あやぐ」なんて動詞あったっけ?

[交ぜ書きと当て字]の続きを読む
頭をぶん殴られるような衝撃(笑)。

いや、英傑群像さんのところで、そういう記述があったのでメモ。

>劉備(りゅうび)の息子に劉封(りゅうほう 養子)、劉禅(りゅうぜん)
>という人物がいます。
>この事からだけでも、劉備は少なくとも劉封を養子に迎えた段階から
>皇帝の位というのを意識していたと推測されます。

>というのもこの息子の名前を二つ並べると「封禅」となり、
>始皇帝(しこうてい)以来の歴代皇帝達が、泰山(たいざん)と
>いう場所で行われた皇帝だけに許された「儀式」の名前になるからです。

元記事はコチラ↓
http://www.chugen.net/base/name.html

これって常識? 私が無知なだけ?(ウスくてスミマセン)

口惜しいのでツッコんでおくと、始皇帝は封禅を復活させたのであって、始皇帝以前に数多くの天子が封禅を行なっており、むしろ、始皇帝以降の方が少ない。三国までに限ると、始皇帝以来、漢は武帝のみ、後漢は光武帝・章帝・安帝の3人。三国の天子は誰ひとりしておらず、三国以降も数えるほどしかいない。

ちなみに封禅の概要については、下記を参照↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%81%E7%A6%85

ただ、この事実、劉備としては喧伝されたら拙いのかも。簒奪とまでは言わないまでも帝位継承の野心を早い段階からもっていたのがバレてしまう(笑)

ついでに気がついた小ネタ。

蜀志・劉封伝に拠れば、「先主が荊州にやってきた時、まだ後継ぎが無かったので、劉封を養子にした(先主至荊州、以未有継嗣、養封為子)」とあるから、史実では彼が養子になったのは劉禅生誕(建安12年、207)以前のはず。

ところが、『三国志演義』では、第34回(毛本)で甘夫人が阿斗を産んだ(建安12年春の設定)のに対し、劉封が養子になるのは第36回(建安12年の春~秋のいつか)。史実とは前後が逆になっているから、「封」「禅」の順序も崩れている。勿体ない(笑)。

『演義』がどうしてこんなことをしたかは不明というしかないけれど、劉封を養子にしたとき、関羽が「すでに子(阿斗)がいるのに、どうして螟蛉(アオムシ。養子のこと)を用いるのか」と言っているのに注目。毛宗崗なんかに言わせると、これが後に関羽の窮地に劉封が援軍を送らない伏線になっているのだそうな。

それよりも、関羽、すでに養子になっている関平の立場は?(笑)

以上、小ネタでした。

   → 雑記目次へ戻る
   → 総目次へ戻る

ランキング参加中。よろしければ1クリックを。(別窓で開きます)
にほんブログ村 歴史ブログへ



さて、『三分事略』のトンデモ無さについての続き。前項は → コチラ

天理図書館の蔵本には8葉(16頁分)の缺落があります。全体が69葉(137頁)しかない中での16頁なので、1割強ほど缺けていることになります。

缺葉という現象そのものは、何せ古い時代の本ですので、差程異とするに当たりません。流通過程で缺けた例は枚挙に暇がありません。例えば、『三国志演義』のエディションの一つ、葉逢春本は、スペインにあるものが現存唯一のもののですが、全10巻中、3巻と10巻が無い、という状況だったりします。

しかし、『三分事略』の場合、このような流通過程における缺落ではない可能性が高いように思われます。

まず、『平話』と比較して、缺けている8葉の場所を確認すると、

(1)巻上の第20・21・22葉
(2)巻中の第21・22葉
(3)巻下の第19・20・21葉

『平話』で言えば、上記の3箇所に相当する部分が缺けているのが判ります。これだけでも「何や似たような場所が缺けているなあ」という印象がありますが、後ろから数えると「似ている」どころの騒ぎではなく、

(1)巻上は最終葉の直前3葉
(2)巻中は最終葉の直前2葉
(3)巻下は最終2葉の直前3葉

が抜けていることになります。つまり、基本的に最後の1葉はちゃんと残っているのに、その直前2~3葉が缺けているわけです。これはどう考えても意図的だろ。流通過程で「缺けてしまった」のではなく、端っから「缺いてある」、つまりもともと印刷しなかったとしか思えない。

一説に「製本過程で脱落した」、つまり落丁だと言うんですが、それは少し無理があるのでは。というのも、『事略』巻上の最終葉の葉数表記が「二十」になっているんですな。もしも、ちゃんと印刷してあって、落丁で抜けたのなら、ここは「二十三」でなければおかしい(事実、『平話』巻上の最終葉には「二十三終」と彫ってあります(リンクの画像参照。左下に葉数表示あり)。↓
http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~nikaido/san023.JPG

何で、こんな阿呆なことをしているかと言えば、「コストダウン」の一語に尽きます。版木代も紙代も一割以上安くなるんですから、本屋としては万々歳です。た・だ・し、買った人間は災難ですが。

何故かというと、これだけ缺落が有るんです。ストーリーがわかりません(涙)。例えば巻上だったら、呂布が劉備を頼って徐州に来てから半年後、袁術の息子袁襄が攻め寄せてきたので張飛がこれを殺した……と思ったら、次の頁では、捕虜になった陳宮が曹操の面前に引き出されている、という具合です。

こんな本でも平気で出版されてしまうのも、元明の出版事情の恐ろしさ(笑)を物語っています。(了)

参考文献は「『三分事略』について」と同じです。

   → 『三国志平話』へ戻る
   → 総目次へ戻る

ランキング参加中。よろしければ1クリックを。
にほんブログ村 本ブログ 歴史書へ
以外と存在が知られていない本のようなので。

パッと見は『三国志平話』のデッドコピーに見える本です。特に、『平話』の挿図が美麗なのに対し、『事略』の方は粗雑の一語に尽きます。画像で比較できれば一目瞭然なのですが、『事略』の画像がネットでは拾えませんでした。

1980年に天理図書館善本叢書漢籍之部10として影印が出ています。その気になれば今でも買えるみたいです。高いけど。
http://www.books-yagi.co.jp/pub/cgi-bin/bookfind.cgi?cmd=d&mc=m&kn0=20&ks0=4-8406-9310-2&pr=&kw=10

何で、こんな本を紹介するかと言えば、『平話』よりも古いという説があるからです。例えば、『古本小説叢刊』という、白話小説を中心に収録した大部の叢書があり、これは『事略』を収録しますが、『平話』は採りません。『事略』の方が古いんだから『平話』を採る必要はない、という立場なわけです。

『事略』が『平話』より古いとすれば、これは結構エライことです。『平話』は、「民間伝承などを含む三国故事を集大成したものとしては、最も古い」ゆえに重視されるという側面があるわけで、ほぼ同内容の『事略』の方が古いとなれば、まず論ずるべきは『事略』でなければならないはずです。

『平話』は表紙および各巻巻頭に「至治新刊」とあることから、元の至治年間(1321-1323)の刊行だと考えられています。それでは、『事略』はどうか。

[『三分事略』について]の続きを読む
5.1 『三国志平話』

前記事が古く成りすぎたので、再整理。

基本的なことはWikipedelia『三国志平話』の項を参照↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97%E5%B9%B3%E8%A9%B1

ただし、巻中・巻下の粗筋についてが、編集の途中なので、たむじんさんの「仁・三国志」を参照↓
http://www.geocities.co.jp/Hollywood/9290/heiwa.html

Wikipediaの外部リンクにもありますが、翻刻と影印は関西大学の二階堂善弘先生のサイト「電気漢文箱」で見られます(サイトそのものは更新停止済)↓
http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~nikaido/pinghua.html

タイトル:
『三国志平話』と称されることが多いですが、正確には表紙のタイトルが「新全相三国志平話」、各巻冒頭のタイトルは「至治新刊全相平話三国志」です。「全相」は「全頁挿絵アリ」の義。その言葉通り、上三分の一くらいに挿絵、その下に本文があります。

成立年代:
表紙のど真ん中に「至治新刊」とあり、各巻冒頭のタイトルも「至治新刊」を関していますので、初刷の刊行は、元の至治年間(1321-1323)と考えて、ほぼ間違いないかと思われます。ただし、現存している国立公文書館蔵本が初刷である保証はなく、重刷だとすると、現存のものの刊行年間は不明、というしかない。また、表紙のタイトルが「新全相三国志平話」とわざわざ「新」が入っていることから、現存の『三国志平話』に先行する『三国志平話』があった可能性も否定はできません。

「三国因」について:
粗筋を読めば一目瞭然ですが、『三国志平話』冒頭には、前漢建国の功臣、韓信・彭越・英布が曹操・劉備・孫権に転生するというトンデモ無い話が記されています。これについての言及。

mujinさん「思いて学ばざれば」の「司馬仲相の裁き」(2008.10.18)↓
http://d.hatena.ne.jp/mujin/20081018/p4

上記の記事に触発されて書いた当ブログのエントリ2題
・「三国因覚書」
・「鬧陰司司馬貌断獄」

『三分事略』について: 
別記事にしました。↓
http://taketaturu.blog68.fc2.com/blog-entry-110.html

(08.10.25初稿)
(08.10.26増補)


   → 「5.2 全相平話五種について」
   → 総目次へ戻る




「最も罪深い新字(笑)」の続きです。

 
当用漢字表を眺めていると、略字の後に正字を示している例があることに気づきます。例えば、臼部の「旧」の後には括弧書きで「舊」が置いてあります。基本的には、1略字の後には1正字のようですが、1つだけ例外が。
 辛部の「弁」の後には「辨」「瓣」「辯」の3字が括弧でくくられています。つまり、「弁」という字は、この3字の略字と看做すと指定されているわけです。
 言うまでもなく、「弁」「辨」「瓣」「辯」は(日本語音でも現代中国語音でもほぼ同音ではありますが)すべて別字です。「弁」はかんむりの一種を表す字であり、「辨」は「わきまえる」、「瓣」は「あまねし」「はなびら」、「辯」は「道理を説きあかす」「いいあらそう」「口だっしゃ」等の義です(参考:角川『新字源』)。
 つまり、「弁別」「花弁」「弁護士」の「弁」は、本来、「辨別」「花瓣」「辯護士」と書き分けられるべきであり、これらに対し「弁」を用いるのは「当て字」であり、「弁」本来の字義とは何の関係もありません。言い換えれば、「弁」はもはや表意文字ではなく表音文字として用いられているわけで、「弁別」「花弁」「弁護士」等は、その字面から意味を判断することは不可能な単語ということになります。
 他に「予」「豫」「余」「餘」「台」「臺」も本来別字であり、同音であることに拠り、前者が後者の当て字として用いられています。
 何故、こんな無茶をやったのか。これはひとえに「書きやすさ」に拠るのでしょう。「漢字を表意文字として劣化させる」代わりに「書きやすさ」を優先しているわけです。「弁護士」と書くのと、「辯護士」と書くのとでは結構差があります。手書きであるならば。
 手書きという前提がほとんど崩れている現在において、これらの当て字は「表意文字としての劣化」という弊害のみが残っている現象とも言えます(というわけで、個人的には手書きでない場合は使い分けるように意識しています。それでも間違えるんですが;苦笑)。
 もっとも、当用漢字字体表ではなく、当用漢字表の段階から、この当て字が収録されているということは、かなり昔から用いられている当て字であり、戦後に導入されたものではないわけですが。
 さて、単漢字レベルでの代用ということならば、上記の例でほとんどだと思うのですが、単語レベルになると、また山のように「当て字」が出てきます。(以下、次回)

ランキング参加中。よろしければ1クリックを。
にほんブログ村 本ブログへ

正字と俗字、旧字と新字(二)の続きです。

 当用漢字の導入が、「漢字としての字体の不統一」と「漢字を表意記号として劣化させる」事態を招いたと書きました。まず、後者について書いておきたいと思います。
 前回、示したように当用漢字はまず、1946年に字数制限が導入され(この段階でも幾つか略字が認められていますが、同時に旧字体の使用も認められている)、1949年に新字体の導入が行なわれています。この第2段階以降、原則的に(特に法令・公的文書・新聞・雑誌では)新字体のみ使用が認められることになります。

 さて、日本最古の公開図書館として知られる「芸亭」というものがあります。私自身も、高校時代に、日本史の授業で知識として詰め込まれた記憶があります(何年前のことかはさておき)ので、多くの人がご存知かとは思いますが、これは「ゲイテイ」では無く、「ウンテイ」と読みます。
 これは(Wikipediaにも書いてありますが)「芸」という字に「ゲイ」「ウン」という二種類の字音があるわけではなく、「芸」という字はそもそも「ウン」としか読みません(でした)。先述した1949年の当用字体表の導入に拠り、「藝」の新字体が「芸」に定められてしまったため、そもそもあった「芸」と衝突することになっちまったわけです。
 「ウン」なんて音は「芸亭」にしか使わないじゃないか、とおっしゃるかも知れませんが、この「芸」という字、例えば現代中国人の名にもよく使われます。「藝」という字も結構見ます。これの区別が当用漢字字体表ではつかなくなってしまう。これは「劣化」でしょう(実際、現代中国語の簡化字では「藝」は「くさかんむり」の下に「乙」と書き、「芸」とは書きません。字音・字義がそもそも違うので、当然なのですが)。

 字音・字義が違うのに、一字に統一されてしまった例としては、他に「糸」「虫」があります。「糸」は本来「ベキ」と読み、「虫」は「キ」と読みます。今日、これを我々が「シ」「チュウ」と読むのは、「糸」「絲」、が「虫」には「蟲」が、統一されてしまったことに拠ります。
 しかし、この2例については、最初の当用漢字表の段階から許容されている、つまり古くから使用されている例だと思います。しかし「芸」については、1949年の段階で、お上のお達しで急に決められたものであり、「漢字を表意記号として劣化させる」という点で罪深いとは言えるでしょう。
 ただ、「芸(ウン)」の使用頻度を考えれば、さほど大したことではないとも言えます。実は、当用漢字の導入に拠って「当て字」が山程生まれたことの方が餘程問題かも知れません(まだまだ続く)。 → 「氾濫する当て字」

附記:この内容は、(まあどんなことでもそうですが)「知っている人は知っている」内容です。ただ、「知らない人は知らない」のも確かなので、覚書として残しておきます。
              → 08.11.04 追補しました

ランキング参加中。よろしければ1クリックを。
にほんブログ村 本ブログへ


10月22日の朝日新聞朝刊「声」欄から。投稿者は30代の女性。

>「ライトノベル 学校に必要か」(9日)を読みました。
>投稿者は、古典文学に親しむ読書家のようですが、
>安易にライトノベルの内容を非難するのは
>筋違いだと思います。
>確かに、表紙や挿絵は、アニメのようなもので、
>名前の通り軽い読み物が多いようですが、
>近年、そのレベルは高まるばかりです。
>文学を目指す作家の登竜門的役割を
>担っているのが現状です。
>今、文壇で活躍なさっているライトノベル出身者で
>直木賞作家の桜庭一樹さんらがいます。
>ライトノベルは、90年代から急速に読者層を広げ、
>現代の若者文化を考える上で無視できなくなり、
>日本児童文学会も未開拓の魅力的な分野として
>注目しています。
>表紙のデザインの体裁などに偏見を持たず、
>幅広い読書ができるよう、望みます。


 この文章について、ライトノベル読者の感想を聞きたい。
 個人的には、既存の権威に拠って権威付けするようになると、そのジャンルは衰退するよ、と言っておきます。

 それはさておき。こういう文章読むと、元の投稿読みたくなるじゃないですか? 私はなった。というわけで、探しましたよ、9日の朝刊。幸い未だ廃品回収には出していなかった。
[あんまりツボに嵌ったので]の続きを読む
 『三国志平話』冒頭に置かれている転生譚ですが、以前に言及したように『五代史平話』冒頭にごく簡単に触れられている他、『古今小説』(のちに「三言」という短篇小説シリーズに組み込まれ『喩世明言』と称される)という短編小説集の第31巻に「鬧陰司司馬貌断獄(陰司をさわがして司馬貌、獄を断ず)」という題で収録されています(原文の電子テキストは結構web上に落ちてます。ココとか)。

 主題は無論、前漢功臣の三国への転生なのですが、細部にかなりの異同があるので、それを中心に紹介してみたいと思います。

 まず、物語の時間が『三国志平話』は後漢光武帝の治世であるのに対し、「鬧陰司司馬貌断獄」(以下「鬧陰司」)では同じく後漢ながら、時代はグッと下がって霊帝の世、つまり三国時代の直前に設定されます。

 主人公の名も変わっています。『平話』では姓が司馬、字が仲相ですが(名は不明)、「鬧陰司」では、姓は司馬のままですが、名は貌、字は重湘となっています。「仲相」と「重湘」は同音かあるいは極めて近い発音だと思われます。

 で、この司馬貌、才がありながら運が無く世に出ることができず、すでに齢五十に達しておりました。そこである時、酒に酔った勢いで天を怨む「詞」を書いてしまいます。それが天上の玉帝の耳に入ったから、さあ大変、激怒した玉帝は司馬貌を罪に問い、召喚します。そして、問答無用に地獄に落とされるところでしたが、太白金星の取りなしによって、半日の間、陰司(冥界の裁判所)の長官(早い話が閻魔大王)の代理を務め、そこで才を示したらば来世の富貴が約束され、さもなくば未来永劫人間には生まれ変われない、という無茶な条件で働かされることになります。

 さて、司馬貌、才あるだけあって一計を講じます。ただ、漫然と案件を待っているのではなく、陰司で未解決となっている案件を解決することで才を認めさせようというのです。
 そこで下役人が持ってきたのが、以下の4つ。

(1)忠臣を冤罪にて殺した件(屈殺忠臣事)
原告:韓信・彭越・英布  被告:劉邦・呂氏

(2)恩を仇で返した件(恩将仇報事)
原告:丁公  被告:劉邦

(3)権力を恣にして帝位を奪った件(専権奪位事)
原告:戚氏  被告:呂氏

(4)危難に乗じて寿命を縮めようとした件(乗危逼命事)
原告:項羽  被告:王翳・楊喜・夏広・呂馬童・呂勝・楊武

マイナーメジャーひっくるめて、楚漢抗争オールスターという趣ですが、ここに蕭何みたいな超大物まで証人喚問した上で、司馬貌は原告と被告に何故か証人まで加えて、以下のように転生させるという判決を下します。
[「鬧陰司司馬貌断獄」(三国因覚書其二)]の続きを読む
mujinさんのところでも少し言及したのですが。

 『新編五代史平話』梁史平話巻上冒頭(ってことは、『五代史平話』の冒頭ってことですが)に、『三国志平話』冒頭の転生譚の原型と思われるものが記載されています(原文は中央研究院の「漢籍電子文献」で見られます)。

 『三国志平話』に比べ、ごく短いものですので適当に要約すると、

 劉季は項羽を殺し漢を建てたが、功臣である韓信・彭越・陳豨を疎んじ、罪を着せて族滅してしまった。これを恨んだ3人は天帝に冤罪を訴え、3人を憐れんだ天帝は、韓信を曹操に、彭越を孫権に、陳豨を劉備に転生させ、天下を三分させることとした。結果、曹操は献帝の天下を簒奪し魏を、劉備は漢室復興を企図して蜀を、孫権は兵を荊州に興して呉を建国した。三国それぞれに「史」があるゆえ、これを『三国志』というのである。

 英布が陳豨に代わり、その転生が劉備、彭越の転生が孫権、というように、短いながら『三国志平話』とは結構異同があります。
 『五代史平話』と『三国志平話』の成書年代の先後は俄には定めがたい(通説では『五代史』の方は南宋末には原型ができあがっていたとされますが)ので、継承関係はよく判りませんが、少なくとも南宋末~元にかけて、この転生譚が相当知られていた話なのは明らか。

 附記:『三国志平話』については、以前少し書いた(コチラを参照)んですが、何時の間にやらWikipediaの『三国志平話』の項が相当充実してますね。私の文章はもう要らないな(苦笑)。

 この文章を全体の何処に位置づけるかは思案中……とりあえず雑記にしときます。

 08.10.26 総目次>B三国志故事の書誌>5『三国志平話』の下に置きました。

   → 『三国志平話』へ戻る
   → 総目次へ戻る

ランキング参加中。よろしければ1クリックを。
にほんブログ村 本ブログ 歴史書へ

 最早、三国志とは全然関係なくなってます(苦笑)。
 ちなみに前項は → コチラ

 さて、新字についての問題ですが、これは戦後の国語改革の中、漢字については「漢字制限」と「字体の簡略化」が改革の二本柱であったことが原因で発生しているように思われます。

>内閣訓令第七号
>          各 官 廳
>  当用漢字表の実施に関する件

> 從來、わが國において用いられる漢字は、
>その数がはなはだ多く、その用いかたも複雜であるために、
>教育上または会生活上、多くの不便があつた。
>これを制限することは、國民の生活能率をあげ、
>文化水準を高める上に、資するところが少くない。
> それ故に、政府は、今回國語審議会の決定した当用漢字表を採択して、
>本日内閣告示第三十二号をもつて、これを告示した。
>今後各官廳においては、この表によつて漢字を使用するとともに、
>廣く各方面にこの使用を勧めて、
>当用漢字表制定の趣旨の徹底するように努めることを希望する。
> 昭和二十一年十一月十六日
>        内閣総理大臣 吉田  茂

               ソースは → コチラ

 この訓令では新字と旧字が入り交じっていますが、これはこの段階では新字の字数が少なく(おそらく一般に通用している俗字のみを使用していた模様)、かつ旧字の使用をも認めていたからでしょう。つまり、この訓令は日常使用する漢字の字数を制限することに主眼があります。
 そして、3年後、今度は次のような訓令が出ます。

>内閣訓令第一号
>           各 官 庁
>  当用漢字字体表の実施に関する件
> さきに、政府は、現代国語を書きあらわすために
>日常使用する漢字とその音訓との範囲を定めて、
>当用漢字表および当用漢字音訓表を告示した。
>しかしながら、漢字を使用する上の複雑さは、
>その数の多いことや、その読み方の多様であることによるばかりでなく、
>字体の不統一や字画の複雑さにももとづくところが少くないから、
>当用漢字表制定の趣旨を徹底させるためには、
>さらに漢字の字体を整理して、その標準を定めることが必要である。
> よつて、政府は、今回国語審議会の決定した
>当用漢字字体表を採択して、本日内閣告示第一号をもつて、
>これを告示した。今後、各官庁においては、この表によつて
>漢字を使用するとともに、広く各方面にその使用を勧めて、
>当用漢字字体表制定の趣旨の徹底するように努めることを希望する。
> 昭和二十四年四月二十八日
>        内閣総理大臣 吉田  茂

                 ソースは → コチラ 

 この訓令によって、所謂「新字」が確定します。ここで、重要なのは「漢字を使用する上の複雑さは、(略)字体の不統一や字画の複雑さにももとづくところが少くないから、当用漢字表制定の趣旨を徹底させるためには、さらに漢字の字体を整理して、その標準を定めることが必要である」という部分。
 コミュニケーションの手段として漢字を考えるならば、字体の統一というのは必須です。古くは始皇帝の小篆採用から『康熙字典』、中華人民共和国の簡化字に至るまで、中国では常に意識されてきた問題です。
 一方、外来のものである故か、日本は漢字使用国でありながら、その字体について独自の規範を設けようとする意識は稀薄でした。ですから、この当用漢字字体表の制定は「劃期的」であったとすら言えます。
 問題は、この字体の統一が「当用漢字」という極めて制限された枠内(1850字)でしか為されなかったことにあります。これは皮肉にも、漢字としての字体の不統一という問題を招きました。さらに漢字制限という行為が、必然的に「漢字を表意記号として劣化させる」事態も発生させたため、問題は複雑になっていきます。(しつこく続く) → 「最も罪深い新字(笑)」

ランキング参加中。よろしければ1クリックを。
にほんブログ村 本ブログ 歴史書へ


渡邉義浩『諸葛亮孔明―その虚像と実像―』の私的書評の蛇足から派生した記事です。

 この本における表記のルール、すなわち「固有名詞には正字を用いる」(ただし、書中には明確な言明はありません。あくまで私の推測です)と同様の立場を取られる方に坂口和澄氏がいます。
 渡邉氏と異なり、坂口氏は表記のルールについて明言されています。

>本書に登場する歴史上の人名には正字(本字)を用いた。
>敗戦直後の混乱に乗じて一種の愚民政策がまかり通り、
>当用漢字音訓表や当用漢字字体表がろくな討議も経ずに制定され、
>著しく漢字の使用が制約され、かつ略字化が進められた。
舊假名遣ひの廃止とともに、
>これは長年にわたって培われてきた文化を損なう愚挙であろう。

>『三国志』に登場する人名には、たとえば陳とか龐とか、
>滅多にお目にかからない文字もある。これらをそのとおりに記し、
關羽は当用漢字字体表に出てくる文字だからといって関羽とするのが
>はたして正しいだろうか。歴史叙述は、
>その時代を生きた人々への愛情や敬意、あるいは共感を抜きにしては語れない。
>とすれば、人名はその時代に用いられたとおりに表記することが、
>彼らに対して最もふさわしい態度ではないか。
>そう考えて歴史上の人名には正字を用いたが、
>なお遺漏があるかもしれない。読者諸賢の斧正をお願いしたい。
(坂口和澄『三国志群雄録』[徳間文庫、2002年]7頁。下線の部分は原文では傍点)


……何か事実誤認が山程あるような気がするんですが。
[正字と俗字、旧字と新字(一)]の続きを読む
 しつこく「龐掠四郡」雑劇の雑感です。(雑劇の梗概はコチラ


 『平話』や『演義』の龐統は、赤壁戦後、孫権に用いられず、劉備にも蔑ろにされて県令に任命されてしまう、という共通点があります。
 『平話』については、mujinさんのエントリを参照していただくとして、『演義』を確認しておくと、第57回において、孫権は容姿が醜い上に無礼であったので用いず、劉備もその容姿を見て喜ばず、耒陽県令に任命して体よく追い払ってしまいます。
 一方、「龐掠四郡」雑劇では、呉に向かった龐統を用いないのは魯粛であり、荊州に向かった龐統を耒陽県令に任命するのは簡雍です。つまり、『平話』『演義』における孫権・劉備の役割を、魯粛・簡雍が務めているわけです。しかも、この雑劇では、孫権も劉備も登場しません。
 何でこんな不自然なことになっているかと言うと、これは明代雑劇独特の事情に拠ります。「張翼徳大破杏林荘」雑劇の雑感でも少し触れましたが、明代において、雑劇とは宮廷演劇であり、皇帝の御前で上演されていました。もう少し厳密に言うと、現存する雑劇脚本のほとんどは、明の宮廷図書館に蔵されていたものを、趙美なる人が抄写したものです。つまり、恐らく皇帝の御前で上演されたであろう台本がほとんどなのであり、それゆえ皇帝という存在が登場するのが徹底して忌避されます。
 しかし、どうしても皇帝を出したい場合も当然あります。そのような場合、「殿頭官」という代役を立てることが多いのですが、三国雑劇の場合、「殿頭官」ではなく、実在の人物を代役にしていることがしばしばあります。そして、最も多いのが、簡雍を劉備の代役とするパターンです。
 ただし、これはすべての三国雑劇に共通するものではなく、特に赤壁以後を舞台とする雑劇に多いようです。この問題については、三国雑劇梗概の整理を進めてから、また考察してみたいと思います。
 一つだけ附言しておけば、曹操については代役を立てられません。つまり、曹操は決して皇帝扱いはされないんですね。これも興味深い現象です。(08.10.16初稿)

   → 19「走鳳雛龐掠四郡」へ戻る。
   → A 脚本の現存する雑劇へ戻る
   → 雑劇目次へ戻る
   → 総目次へ戻る

ランキング参加中。よろしければ1クリックを。(別窓で開きます)
にほんブログ村 歴史ブログへ

「龐掠四郡」雑劇についての追記です。

 この「龐掠四郡」第4折で張飛と対峙した黄忠が、二将軍、すなわち関羽を出せ、と迫ります。何故なら、関羽とは遺恨が有ると言うんですな。
 これは『平話』にも見られない展開です。『平話』では、魏延、次いで張飛が黄忠と戦うもこれを討ち取れず、関羽が呼び寄せられるというように物語は進みます。
 さて、「龐掠四郡」の黄忠は、当然、関羽との遺恨について語るのですが、この内容がまたとんでもない。井上泰山訳によって該当部分を引用します。

>その昔、拙者は奴と科挙を受けたが、やつめ、日頃から拙者に恨みを懐き、
>御史台に根も葉もない訴状を出して拙者を訴えおった。
>その後自分から逃げたくせに、あべこべに拙者を捕えて二十回の棒叩きに処し、
>この地で数年にわたって拙者を監禁しおった。
>今日こそ一戦交えてくれる。お主は帰れ。拙者は雲長に用があるのじゃ。


 ……ツッコミどころがありすぎて困るんですが(苦笑)。
 三国時代に科挙があるか!(流石に武挙のことでしょうけど。文挙だったら凄いな)」というようなツッコミは野暮でしょうけど(『演義』にも張角が「不第秀才」だった、とか、明らかに科挙を前提に置いている記述があることですし)。
 関羽の極悪人ぶりが目を惹きます。事実だとしたら、言い訳聞かないよなあ。ただ、こんな話は『演義』はおろか、『平話』にすら見えないので、出典は不明です。
 妄想するならば、黄忠を監禁したのは関羽を騙った魏延だった、というはどうでしょうか? 『平話』『演義』とも、黄忠と前後して魏延が劉備陣営に帰順するのですが、「龐掠四郡」では魏延は全く姿を現さない。これでは不審に思われても仕方がない(笑)。
 『演義』では、魏延の容貌は「身長八尺、面如重棗」と表現されます(『演義』毛宗崗本第41回)。関羽が「身長九尺、髯長二尺。面如重棗、脣若塗脂。丹鳳眼、臥蠶眉」(同第1回)ですから、魏延の容貌は関羽と酷似していたことになります(何でこんな設定なのかはやっぱり不明)。つまり、魏延が「オレは関羽だ」と称すると騙される人間が出る可能性がある、と(笑)。で、関羽を騙った魏延が、黄忠を虐めた、と。動機は不明です(笑)。しかし、こんな悪行をしでかしたので、魏延は逃走。ついに劉備陣営に加わることはなかった……(三国雑劇には何故か魏延は出てこない)

 って、この妄想は関羽自身によって否定されてしまうんですが。張飛に、黄忠が自分との対決を求めていることを伝えられた関羽は、

>この老いぼれめ、無礼な。昔の恨みを蒸し返すとは。よし、相手になってやろう
>(這老匹夫無礼。他想旧日之讐、我和他相持去。)


と言っています。やはり黄忠との間には旧怨があったようです。
 ついでに言えば、先程の魏延真犯人説、『平話』や雑劇では、魏延の容貌が関羽に似ていたという設定は出てこないのも難点ですね。(08.10.15初稿)

   → 19「走鳳雛龐掠四郡」へ戻る。
   → A 脚本の現存する雑劇へ戻る
   → 雑劇目次へ戻る
   → 総目次へ戻る

ランキング参加中。よろしければ1クリックを。(別窓で開きます)
にほんブログ村 歴史ブログへ
19 走鳳雛龐掠四郡

題目 諸葛亮智排五虎
正名 走鳳雛龐掠四郡
簡名 龐掠四郡

雑感
 ……何というか、もう荒唐無稽とかいうのも超越した話ですな。元ネタは恐らく『三国志平話』でしょう。『平話』の「龐掠四郡」についてはmujinさんの、このエントリに詳しいです。
 ただ、ディテールはかなり違っていて、これはなかなか面白い考察対象になりそうな気がします。黄忠の重要性が雑劇だとかなり低下しているのが一番の違いかな。それと、四郡の太守が正史というか、『演義』とほぼ一致していること(金全の「全」は「旋」と、劉鐸の「鐸」は「度」と音通でしょう)。
 後者の現象は、この雑劇が『演義』成立後に修訂されていることを示唆しているのかも知れません。古くから正史と一致しているのなら、『平話』で人名や郡との組み合わせが無茶苦茶になっている説明がつかなくなるので。話の大筋は『平話』を踏襲しているので、雑劇の原型は『演義』に先行する可能性も高いですが。

[走鳳雛龐掠四郡]の続きを読む
ここ1週間の更新情報です。

08.10.14 雑劇 「走鳳雛龐掠四郡」
08.10.13 雑記 行ってきました
08.10.11 書評 渡邉義浩『諸葛亮孔明―その虚像と実像―』蛇足(其一)
08.10.10 龐統の仕官をめぐる故事について
08.10.08 テンプレート変更しました。
      書評 渡邉義浩『諸葛亮孔明―その虚像と実像―』

※ スパム対策のため、コメント・トラックバックは承認制とさせていただいております。
 行ってきました、日本中国学会。

 お目当てだった吉永壮介氏の「龐統の仕官をめぐる故事について」ですが、基本的には先に紹介した梗概の内容に収まるものでした。というか、そうで無ければ学会発表としては拙いのでしょうね。

 興味を惹かれた知見としては、北宋末かた南宋にかけての人、葉廷珪が著した『海録砕事』巻13下に、

>龐統字士元、自号白馬将軍。

という記述があるということ。
 龐統と白馬というと、真っ先に思い浮かぶのは、『三国志演義』で、龐統が劉備の白馬を譲り受け、それがために劉備と人違いされて射殺されるという挿話(毛宗崗本だと第63回)。この『演義』の挿話の濫觴は南宋初期くらいまで遡れる可能性があるわけですね。
 しかも、この、龐統=白馬将軍というのは、誤解に基づく可能性があるらしいです。
 南宋・章定の『名賢氏族言行類稿』巻3に魏の龐徳が常に白馬に乗っており、関羽がこれを指して白馬将軍と呼んだという記述の直後に、龐統に対する言及が置かれている。つまり、葉廷珪は、この書物を誤読して、本来は龐徳を指していた「白馬将軍」の語を、龐統を指すものだと勘違いしたという指摘です。

 龐統をめぐる説話としては、何と言っても「龐掠四郡」雑劇の荒唐無稽さが目を引くんですが、これについては近々雑劇の項で紹介したいと思っています。

   → 雑記目次へ戻る
   → 総目次へ戻る

ランキング参加中。よろしければ1クリックを。
にほんブログ村 歴史ブログへ

 この記事は、mujinさんのこのエントリ(というかコメント欄でのやりとり)に触発されております。

 ちなみに書評の本体はコチラ

 さて、『諸葛亮孔明―その虚像と実像―』では、固有名詞に所謂「旧字」を用いています。引用した部分でも陳「壽」と三「國」志となっていることからも判ります。固有名詞以外は新字ですので、三国時代の第2字は、「国」になります。
 渡邉氏が、どのような意図でこのように書くかは、本文中に言及がないため不明です(何らかの思想はあるのだと思いますが)。ですから、固有名詞に旧字を用いることの是非は、ここでは考えないことにします。
 問題にしたいのは、「固有名詞を旧字にしたいらしいんだけど、なっていない」という点です。
 まず、確認しておかなければならないのは、旧字・正字・本字、まあ言い方は色々ありますが、原則的に、現代日本では『康熙字典』の字体を、旧字と考えていること。
 例えば、本書において、関羽は「關羽」と表記されます。だけど、旧字にするんだったら、「羽」ではなくて「翊」から「立」を除いた形にしなければならない。諸葛亮の「諸」だって、「日」の上に点があるべきですが「諸」のままです。
 無論、著者である渡邉氏が、字体の不統一に気がついていないはずがなく、出版社との関係等々で、この形になっているのでしょう(因みに、同じく渡邉義浩『三国政権の構造と「名士」』では、キッチリ旧字に統一されています)。
 しかし、結果的に『諸葛亮孔明』においては、「固有名詞に用いられる漢字の中、字体が新字と旧字で派手に違うもののみ新字にする」という、物凄く中途半端な基準が用いられていることになります。 これは流石に意味がないのでは、と思った次第。

 旧字・新字については、別に思うことがあるので、改めて述べてみたいと思っています。

                  → 派生記事「正字と俗字、旧字と新字」


   → 書評目次へ戻る
   → 総目次へ戻る

にほんブログ村 本ブログ 歴史書へ


 こんなものを見つけました。

 第60回日本中国学会大会なるものが、10月11・12日と京都大学で開催されるそうです。

      → 大会プログラム

 その中で、12日の午前中の第2部会(文学・語学)にて、こんな発表が……

2―7 龐統の仕官をめぐる故事について (10時30分〜11時)
                          吉永 壮介(慶応大学)


著作権に触れてしまうかも知れませんが、発表要旨を以下に全文引用。

[龐統の仕官をめぐる故事について ]の続きを読む
 新人物往来社。1998年2月10日初版第1刷発行。248頁。
        Amazonで買えます → コチラ

 帯の惹句「孔明と劉備はせめぎあっていた! 30年ぶりに歴史学者が挑んだ諸葛
亮論」に内容は尽きているかと思います。
 30年前の著作とは、狩野直禎『諸葛孔明―中国英雄伝』(人物往来社、1966)を差す
のでしょう。
 全3章からなり、「第1章 陳壽の描く諸葛亮」「第2章 虚像」「第3章 実像」となって
います。大雑把に言ってしまえば、第1章は正史『三国志』本文、特に蜀書・諸葛亮伝
の概説、第2章は正史以後の諸葛亮像の変遷、第3章は「名士」を鍵語とした渡邉氏
独自の諸葛亮論となります。
 無論、本書の眼目は第3章にあるわけですが、この「名士」によって三国時代を読み
解くという作業は、渡邉氏が本書の後に刊行された、 『三国政権の構造と「名士」』
(汲古書院、2004年)において委曲を尽くされているので、ある意味、本書の第3章は
「中途半端」ではあります。
 また、第1章・第2章は手際よくまとまってはいますが、既存の書籍からも得られる情
報がほとんどで、辛辣に言ってしまえば「新味」はありません(個人的には、「第2章
第1節 『官』製の諸葛亮像」は新鮮でしたが)。
[渡邉義浩『諸葛亮孔明―その虚像と実像―』]の続きを読む
 あらかじめお断りしておきます。今回は完全に妄想です。

 『演義』は後漢桓帝の崩御で幕を開け、次いで黄巾の乱が勃発。
劉備・関羽・張飛の桃園結義も、この乱を平定するという志を遂げ
るために成されたわけです。
 桃園結義後、義勇軍を結成した劉備らは、([シ豕]郡?)太守劉
焉に投じ、黄巾討伐で功績を上げていきます。この劉備の黄巾討
伐自体、正史でははっきりと確認できない話で、劉焉がタク郡太守
だったりすることも含めて、「虚構である」で終ってしまってもいいわ
けですが、こんな所にも『演義』の独自性というのはあったりします。
[朱儁考]の続きを読む
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。