南飛烏鵲楼

三国志に特化して再開します(2008.04.09)
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以外と存在が知られていない本のようなので。

パッと見は『三国志平話』のデッドコピーに見える本です。特に、『平話』の挿図が美麗なのに対し、『事略』の方は粗雑の一語に尽きます。画像で比較できれば一目瞭然なのですが、『事略』の画像がネットでは拾えませんでした。

1980年に天理図書館善本叢書漢籍之部10として影印が出ています。その気になれば今でも買えるみたいです。高いけど。
http://www.books-yagi.co.jp/pub/cgi-bin/bookfind.cgi?cmd=d&mc=m&kn0=20&ks0=4-8406-9310-2&pr=&kw=10

何で、こんな本を紹介するかと言えば、『平話』よりも古いという説があるからです。例えば、『古本小説叢刊』という、白話小説を中心に収録した大部の叢書があり、これは『事略』を収録しますが、『平話』は採りません。『事略』の方が古いんだから『平話』を採る必要はない、という立場なわけです。

『事略』が『平話』より古いとすれば、これは結構エライことです。『平話』は、「民間伝承などを含む三国故事を集大成したものとしては、最も古い」ゆえに重視されるという側面があるわけで、ほぼ同内容の『事略』の方が古いとなれば、まず論ずるべきは『事略』でなければならないはずです。

『平話』は表紙および各巻巻頭に「至治新刊」とあることから、元の至治年間(1321-1323)の刊行だと考えられています。それでは、『事略』はどうか。

『事略』の表紙の構図はほぼ『平話』(『平話』の表紙の画像は → コチラ)と同じで、下三分の二の左右にタイトルが入ります。『事略』の場合、右は『平話』と同じく「新全相三」ですが、左側は「国志□□」、最後2文字は一部缺けてて読めないんですが、「平話」ではなく「故事」だろうと言われています。つなげて「新全相三国志故事」ですね。そして、『平話』だったら、「至治新刊」とあるところに「甲午新刊」とあります。干支による年紀表示です。

一方、各巻巻頭のタイトルは「至元新刊全相三分事略」、この「至元」は元号です。つまり、表紙と本文のタイトルを考えあわせると「至元甲午」に出版された、と考えられます。

では、「至元甲午」はいつか、ってことになるのですが、これが大問題になります。
先に紹介した天理図書館善本叢書の解題(入矢義高氏に拠る。以下、入矢解題と略称)に、次のように解説します。

>元明二代の通俗書では後印のものほど本文も挿絵も粗雑に
>なるのが通例である。とすれば、「甲午新刊」とはあっても、
>至元年間に甲午はない以上、さらに後の甲午、
>つまり至正十四年(一三五四)をこれに当てざるを得ない。


つまり、『事略』の刊行は1354年、『平話』に30年ばかり遅れる、という見解です。

これに対して「至元甲午」はある、という反論があります。確かに、1354年の前の甲午の歳、すなわち1294年は、至元31年、つまり「至元甲午」です。

さあ、話がややこしくなってきました(笑)。それでは、入矢解題にある「至元年間に甲午はない」というのは誤りなのか。ただ、誤りだとしたら、あまりにも単純なミスだと言わざるを得ません。

タネを明かすと、元は「至元」という元号を2度用いており、それが混乱の原因です。同一王朝で同じ元号が用いられるのは珍しく、この「至元」の他は、唐朝で「上元」が2度用いられたくらいでしょうか(あくまで私が探した範囲で、ですが。他にお気づきの方はご教示いただけると幸いです)。無論、複数の王朝で、同一の元号が用いられた例は相当あります。「甘露」なぞ、魏と呉で用いられています。

さて、至元に話を戻すと、まず西暦1264年から1294年までの31年間、至元という元号が用いられます(便宜的に「前至元」と呼びます)。そして、約40年後、1335年から1340年までの6年間、再び至元が用いられます(「後至元」)。『平話』の刊行された至治年間は、この2つの「至元」の中間に位置することになります。

先に引用した入矢解題の「至元年間に甲午はない」という記述は、『事略』は『平話』より遅れるという前提に立っているわけです。そして、この前提を認めないのであれば、『事略』は前至元甲午に刊行されたのであり、『平話』に先行する、という結論が導き出せます。

どちらが正しいのか?

注目すべきは、入矢解題の「元明二代の通俗書では後印のものほど本文も挿絵も粗雑になるのが通例である」という指摘です。『三国志演義』などを見ても、確かにこういう傾向はあり、特に粗雑な挿絵を構図はそのままに精緻に彫り直す、という工程はやや考え難い気がします(無論、このような作業が行われた可能性を完全に否定することもできません。あくまでどちらの可能性が高いか、という議論)。

加えて、『事略』をよく見ると、「至元甲午」と記す箇所は一箇所も無いことに気づきます。表紙には「甲午新刊」とあるだけで「至元」が無く、本文の方は「至元新刊」とはありますが、「甲午」はありません。しかも、先に述べたように、表紙のタイトルが「新全相三国志〔故事〕」と推測されるのに対し、本文の方は「至元新刊全相三分事略」と、全く違ったタイトルが附けられているのも疑問です。穿った見方をすれば、後至元年間に初刷が為された後、甲午の歳に表紙だけ差し換えて、あたかも全く新しい本であるかのように見せかけて重刷が為された、と考えることもできます。

何にせよ、この頃の中国の出版事情は、現代の我々が思いもよらないほど複雑怪奇だったということなんでしょう。

『事略』のトンデモ無さについては、もう少しネタがあるのですが、「続く」ということで。
                    → 08.10.28 追補しました。


参考文献:
入谷義高「『三分事略』解題」(天理図書館善本叢書漢籍之部10)
中川諭「『三国志平話』と『三分事略』」(『新潟大学教育人間科学部紀要』6-1、2003.11)
    ※ この論文はネットで読めます! ↓↓
http://dspace.lib.niigata-u.ac.jp:8080/dspace/bitstream/10191/2027/1/KJ00000043430.pdf
邱嶺「研究余滴 至元年間に甲午はあるか」(『中京国文学』21、2002)
竹内真彦「『三分事略』の成立について」(『桃の会論集』3集、2005)

   → 『三国志平話』へ戻る
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