南飛烏鵲楼

三国志に特化して再開します(2008.04.09)
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2日ほど間があいてしまいましたが、「2.1 通行本(毛宗崗本)」の続きです。

2.1.0.4 評改の理由
さて、毛宗崗本についての最大の疑問は、「何故、毛父子は大幅な変改、および大量の評を加えたのか」という点にあります。

それを考えるには、まず、毛宗崗本の成立時期を確認しておく必要があるかと思います。

毛宗崗本には金聖嘆の序が附されますが、これには「順治甲申(元年、1644)」とあります。しかし、この序が仮託、つまりニセモノであることは定説となっており、実際に刊行されたのは、それより遅れる康煕年間(1662-1722)です。

現存する最古の『三国志演義』は嘉靖本とよばれる版本で、これには「弘治甲寅(7年、1494)」の「序」と「嘉靖壬午(元年、1522)」の「引」が附いており、一般に嘉靖元年の刊行だと考えられています(ただし、近年、この見解に疑義が呈されてもいます。いずれ2.2.1 嘉靖本の項で書きたいと思ってます)。毛宗崗本は、そこからおよそ150~200年ほど遅れて現れたテキストということになります。

嘉靖本から毛宗崗本に至る期間、現存するものに限っても、40種近くの『三国志演義』版本が存在します。それぞれ内容は違うのです(だからこそこんな文章を書き連ねているわけです)が、毛宗崗本が行なったのは、前述した通り、「毛宗崗本」と「それ以外」という分け方ができるくらい大幅な変改でした。

当然のことながら、そんなことをしなければならない理由があったはずです。

さて、ここから臆説です。

毛宗崗父子が大幅な変改を行った最大の理由は、端的に言って「当時、『三国志演義』の売り上げが落ち込んでいた」からであろうと思われます。

と言うのも、毛宗崗本を見ると、本文以外で勝負しようとする傾向が強いからです。まず、評が大量に挿入されていること。評を入れること自体は毛宗崗本の底本である李卓吾批評本でも行なわれているのですが、毛宗崗本の場合、その量が半端じゃありません。また、本文が始まるまでに、まず、金聖嘆の序があり、ついで「凡例」(この本が、俗本、つまり底本の誤謬をいかに改めたかを箇条書きで示す文章)、「読『三国志』法」(一種の読書指南、かなり長い)が置かれて、やっと本文です。

評も「凡例」も「読『三国志』法」も本に附加価値を与えようとするものであり、ひっくり返すと、本文だけでは『三国志演義』が売れなくなっていた状況を浮かび上がります。加えて、毛宗崗本は金聖嘆の序を附しています。これは明らかな権威づけであり、悪く言えば「虎の威を借」り、「他人の褌で相撲を取」ろうとするものです。

金聖嘆は毛宗崗父子と同じく長洲(蘇州)出身の文人ですが、毛父子など及びもつかない影響力を持っていました。
参考:金聖嘆-維基百科↓
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E8%81%96%E6%AD%8E

李卓吾(李贄)の思想を継承し、戯曲・小説を文学として積極的に評価した点に金聖嘆の思想の特徴があります。彼は過去の文学を綜攬して、『荘子』「離騒」『史記』「杜詩」『水滸伝』『西廂記』の6つを「六才子書」と称賛しました。小説である『水滸伝』、戯曲である『西廂記』を『史記』や杜甫の詩と並べているわけで、これは旧来の文人の価値観に真っ向から挑戦するものでありました。
参考:李贄-維基百科↓
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E8%B4%84

同時に金聖嘆は出版に携わる人でもあり、上記の「六才子書」は彼の評を加えて出版されています。そして、彼は出版者としても相当のヤリ手でした。彼の辣腕を示す最大の事跡は、『水滸伝』を「腰斬」したことです。ウィキペディアの該当記事を引用しておきます。

>金聖嘆は百回本のうち物語が面白い部分は梁山泊に百八人が集う
>第七十一回までであると判断し、第七十二回以降を切り捨てた上で、
>第七十一回後半を書き改めて最終回とし、かつ回数を整えるため
>本来の第一回を前置きとし、第二回以下の回目をそれぞれ一回ずつ
>繰り上げた七十回本を作り、出版した。遼との戦いを含む後半部分を、
>女真人による異民族王朝である清が忌避したためとする説もある。
>清代には七十回本が流行し、中国では20世紀に入るまで水滸伝と
>言えば七十回本を指した。
出典:水滸伝-Wikipedia↓

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%BB%B8%E4%BC%9D

上記のウィキペディアでは「腰斬」の理由を「72回以降は面白くない」ことと「清朝下での出版であること」に求めていますが、もう一つ、決定的な要因として「短くなること」が挙げられます。旧来の100回が70回になることで、出版コストは格段に下がります(単純に考えれば3割減になる)。ということは価格も下がりますから売れ行きの増大を見込めるでしょうし、価格設定を巧くすればそこでの利鞘も稼げます。

上記のような活動を通じ、金聖嘆は明末清初の蘇州出版業界にあって、一種のカリスマとなっていたようです。それゆえ、毛宗崗本は金聖嘆の序を「偽造」して箔を附けようとしたわけです。

毛宗崗本が金聖嘆の権威を借りようとしたことは、そのタイトルからも想像できます。毛宗崗本には『第一才子書』あるいは『聖嘆外書』というタイトルが附けられています。いずれも金聖嘆にあやかろうとしたタイトルであり、そこには、最早『三国志』だけでは客がつかないので、カリスマ金聖嘆に頼って売ろうとする意図がはっきりと存在しています。ついでに言っておけば、金聖嘆は『三国志演義』を「才子書」には含めていません。『三国志演義』を「才子書」とすることは完全なデッチ上げです。

と、ここまで否定的な言辞を連ねてきましたが、毛宗崗本による本文の変改そのものは純粋に「洗練」として評価できるものがほとんどです。これは金聖嘆による『水滸伝』の変改にも通じるもので、彼らが単なる売り上げ至上主義の商売人ではなく、白話小説という文藝そのものに真摯に取り組んでいたことも見落とすべきではありません。だからこそ、近代以降、『三国志演義』の邦訳の底本には、毛宗崗本が選択されてきたのでしょう。

長くなりましたが、かくして康煕年間に現在の通行本となる『三国志演義』が生まれました。

ただ、この毛宗崗本がすぐさま通行本になったわけではないようです。「毛宗崗本以後」についても、少し考えておくべきことがありますが、それはまた次回。
    → 08.11.11 「2.1.0.5 毛宗崗本刊行以後」

   → 2.0 前口上および目次へ戻る
   → 総目次へ戻る

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