南飛烏鵲楼

三国志に特化して再開します(2008.04.09)
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まだ読了してないんですが、どうしても書いておきたかったので。

岩波新書。2008年4月22日第1刷発行。294頁。
中国の五大小説 上 (1) (岩波新書 新赤版 1127)中国の五大小説 上 (1) (岩波新書 新赤版 1127)
(2008/04)
井波 律子

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著者の井波氏は国際日本文化研究センター教授。専門は中国文学で、筑摩書房の『正史三国志』の翻訳に参加、その後個人で『三国志演義』の全訳も成されており(ちくま文庫)、三国志関係の著述という意味では第一人者と言って良いと思います。

『三国志演義』関係に限定すれば、上記の全訳の他、本書と同じく岩波新書に、そのものズバリ『三国志演義』という本があります(1994年)。
三国志演義 (岩波新書)

ので、本書も期待して読み出したんですが。
しかし、率直に言って期待はずれ。少なくとも『三国志演義』については、前著『三国志演義』を読むべきです。
著者の言う中国の五大小説とは、以前に言及した明代四大奇書『三国志演義』『水滸伝』『西遊記』『金瓶梅』に清代の作品である『紅楼夢』を加えたもの。基本的には、これらの作品についての読書指南と呼ぶべき文章が綴られており、この上巻では『三国志演義』と『西遊記』が扱われています。

まだ、『三国志演義』についての一部を読んだだけなのですが、基本的な間違いがあまりにも多い。三国志について数多くの専著を持つ井波先生らしからぬボーンヘッド(死語だな)の連続です。

とりあえず開巻冒頭の一例。

>民間芸能の長篇連続講釈を母胎とする長篇小説『演義』『西遊記』『水滸伝』に
>共通する形式的な特徴は、「章回小説」だということである。章回小説とは
>初回から最終回まで、一回ずつ区切りながら、鎖状に回を連ね、語りすすめて
>ゆくスタイルをさす。各回の末尾には必ず「且く下文の分解を聴け(しばらく
>かぶんのときあかしをきけ。まずは次回の分解をお聞きください)」という
>決まり文句が置かれ、これを受けて次なる回が始まる仕掛けなのである。
>こうした章回小説の語り口は、聴衆に「このつづきは次回のお楽しみに
>(またのご来場をお待ちします)」と呼びかける、連続講釈の語り手たる
>講釈師の口調を踏襲もしくは模倣したものにほかならない。(「はじめに」iii頁)


うーん。誤解を招く書き方ですね。少なくとも『三国志演義』は分量的に言えば、史書に取材した部分の方が圧倒的なのは『三国志平話』と比較すれば明らか。「長篇連続講釈を母胎とする」という言い方は一面的に過ぎます。また、『三国志演義』については「且聴下文分解」という決まり文句が「必ず」置かれるようになるのは毛宗崗本が初めてです。毛宗崗本の底本である李卓吾批評本、さらに古態を伝える嘉靖本などには、「必ず」附いているわけではありません。

まあ、これは現象を単純化しているがゆえの文章と解釈できないことはない。しかし、これに続く文章は大問題。

>白話長篇小説のなかで、もっとも早く、意識的にこの形式を採用したのは、
>『演義』だといえよう。しかし、最古の版本たる「嘉靖本」は二百四十則
>(二百四十回)で構成されており、回目(表題)は「天地を祭り 桃園に
>義を結ぶ」(第一則)、「劉玄徳 寇(あだ)を斬りて 功(いさお)を立つ」
>(第二則)というふうに、すべて単句(表現)となっている。これを二則ずつ
>まとめて一回とし、全百二十回とした版本が出現したのは、嘉靖本が
>出てから二、三十年あとのことだと思われる。このとき、回目もまた
>「桃園に宴(うたげ)し 豪傑 三(み)たり義を結び、黄巾を斬りて 英雄
> 首(はじ)めて功を立つ」(第一回)というふうに、すべて対句表現を
>用いたことは、物語を立体的に膨らませるうえで絶大な効果があった。
>それは、回目の対句表現が示すように、常に二様の視点を交錯させ
>ながら、物語世界を複合的に展開してゆくことを可能にしたのである。
>(同前iii-iv頁)


嘉靖本は「嘉靖壬午(元年、1522)」の「引」(序文の一種)があるゆえ、こう呼ばれます。ですから、ふつうは嘉靖元年(1522)の出版とされます。それから20~30年後、ってまだ嘉靖年間じゃん(嘉靖は45年まで、つまり西暦1566年まで使用されます)。現存する『演義』版本の中、嘉靖年間以前刊行だと考えられ、なおかつまとまった分量が残っているのは嘉靖本以外には葉逢春本しかありません。しかし、この本は全120回ではなく、全240段(目録の名称による)。つまり、嘉靖本と同じ分け方です。

『演義』が全120回になるのは、前に書いたように李卓吾批評本から。この版本は厳密には明刊としか判りませんが、形式その他から判断してどんなに早くても万暦年間(1573-1619)の刊行。嘉靖本からは50年以上遅れます。

しかも、何度もこのブログで書いている通り、李卓吾批評本の回目は従来のものを二つつなげただけで、「対句」になっていません。『三国志演義』の回目が対句になるのは毛宗崗本を待たねばならず、つまり康煕年間(1662-1722)まで遅れます。

これは『水滸伝』より遙かに遅く、先に論じた通り、『三国志演義』の李卓吾批評本および毛宗崗本がむしろ『水滸伝』を模倣したと考えられます。章回小説の形式を作り出したという栄誉は、残念ながら『三国志演義』ではなく『水滸伝』にこそ与えられるべきでしょう。

そもそも明清代を通じて、文藝としての『三国志演義』の評価は決して高くありません。白話文藝の最高峰という評価は常に『水滸伝』、そして清代に現れた『紅楼夢』に与えられてきました。これに対し、『三国志演義』の文章が評価されることはまずありません。それもそのはずで、『演義』の文章そのものは平易な文言を中心としており、白話表現は張飛のセリフなど、例外的に含まれているに過ぎません。文体の面だけを取り出せば、「白話小説」ということにすら疑問を覚える程です。

『演義』に対する評価というのは、その構成(プロット)の巧みさに拠るのだと思います。極端に言えば、ストーリーと文章が完全に切り離せることが、『三国志演義』の物語が日本でここまで浸透した理由なのではないかとさえ思えます。

さて、この『中国の五大小説(上)』についてはまだまだツッコミたいことがあるのですが、それはまた改めて。

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