南飛烏鵲楼

三国志に特化して再開します(2008.04.09)
管理者ページ 
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

『演義』には様々なエディションがあること、
そして現在、日本語訳として読めるものは毛綸・毛宗崗父子が
大幅に改変したエディションのみであることは、
以前に指摘しました。


   → 書評 坂口和澄『三国志人物外伝』

ただし、様々なエディションがあるとは言え、
それは一つの「原作」から派生したものであることは、
全ての版本研究が前提としています。


現在、これが「原作」だという本は見つかっていないようですが、
それでは、この「原作」は羅貫中が作者だと言えるのでしょうか?
(ここでいう「作者」とは、近代小説のように、その作品について、
材料を集め、自分の文章で書き上げた人間だと思ってください。
これも乱暴な定義ですが)

『演義』のいかなるエディションにも、
原則的に「羅貫中」の名は附されています。


例えば、現在発見されているエディションの中、
最古の出版とされる『三国志通俗演義』(嘉靖本)は、
各巻巻頭に「晋平陽侯陳寿史伝・後学羅本貫中編次
と記されています。
(恐らく、「本」が諱で「貫中」が字 → 餘談「諱と字」へ)


ということは、「原作」にも「羅貫中」という名が附されていた
可能性は極めて高いと考えられます。


しかし、それでも羅貫中が『演義』の「原作」を書いたのか、
ということには疑問符を附ける必要があります。


何故なら、『演義』の中には、使用語彙や文体が
他の部分とはかなり異なる箇所があるからです。


詳細は金沢大学文学部の上田望先生が発表されている、

「『三国演義』の言葉と文体」

という論文を参照していただきたいのですが、
ごく大雑把にいうと、関羽と趙雲の物語については、
他の部分とかなり語彙や文体が異なるという指摘です。


関羽について、もう少し具体的にいうならば、
地の文で関羽のことを「関公」あるいは「公」と呼ぶのは、
2箇所、すなわち「千里独行」と「麦城昇天(関羽の死)」の
部分に集中しており、他の語彙をも勘案すると、
この部分はあとから挿入された可能性があるということです。


と、なると、羅貫中の地位というのは多分に相対的なものになります。


何故なら、上記の前提に立つと、『演義』原作について、
さらに2つの段階が存することになるからです。
つまり、


1) 関羽や趙雲の物語が挿入されていない『演義』


2) それらが挿入された『演義』


という2段階です。
そして、羅貫中がどちらに関わっていたのかは、皆目、判りません。
まあ、どちらかに関わってはいたのでしょうが、両方ということは有り得ない。


1)の段階で関わっていれば、「原作者」と言えないこともないでしょうが、
2)であれば、これは「原作者」とは呼び難いでしょう。


そして、1)だとしても問題があります。
何故なら、魯迅『中国小説史略』を筆頭として、関羽の描写については、
しばしば、『演義』中で最も高い文学性を持つ箇所として称揚されますが、
その最も優れた箇所に、羅貫中は関わっていないことになるからです。(了)

   → 私論三国志目次へ戻る
   → 総目次へ戻る

スポンサーサイト
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://taketaturu.blog68.fc2.com/tb.php/32-3e077386
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。