南飛烏鵲楼

三国志に特化して再開します(2008.04.09)
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 新人物往来社。1998年2月10日初版第1刷発行。248頁。
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 帯の惹句「孔明と劉備はせめぎあっていた! 30年ぶりに歴史学者が挑んだ諸葛
亮論」に内容は尽きているかと思います。
 30年前の著作とは、狩野直禎『諸葛孔明―中国英雄伝』(人物往来社、1966)を差す
のでしょう。
 全3章からなり、「第1章 陳壽の描く諸葛亮」「第2章 虚像」「第3章 実像」となって
います。大雑把に言ってしまえば、第1章は正史『三国志』本文、特に蜀書・諸葛亮伝
の概説、第2章は正史以後の諸葛亮像の変遷、第3章は「名士」を鍵語とした渡邉氏
独自の諸葛亮論となります。
 無論、本書の眼目は第3章にあるわけですが、この「名士」によって三国時代を読み
解くという作業は、渡邉氏が本書の後に刊行された、 『三国政権の構造と「名士」』
(汲古書院、2004年)において委曲を尽くされているので、ある意味、本書の第3章は
「中途半端」ではあります。
 また、第1章・第2章は手際よくまとまってはいますが、既存の書籍からも得られる情
報がほとんどで、辛辣に言ってしまえば「新味」はありません(個人的には、「第2章
第1節 『官』製の諸葛亮像」は新鮮でしたが)。
 しかし、個人的には、以下のような言葉に出会えただけでも、本書を読んだ価値は
ありました。

>これらの歴史小説に描かれる諸葛亮像は、陳壽の著した『三國志』に基づく諸葛亮
>像に比べると、正しい諸葛亮像ではない、価値のない諸葛亮像であると考えられる
>ことがあります。たしかに、事実として三国時代に存在した諸葛亮と、『三國志演義』
>に描かれた諸葛亮とは、異なる存在でしょう。
>しかし、「語りもの」文学として発達した『三國志演義』の諸葛亮像には、その語りを
>聞き、諸葛亮に自己の希望や理想を重ね併せた、多くの中国の民衆や知識人の願
>望が込められているのではないでしょうか。諸葛亮の活躍に、社会への不満や鬱憤
>のカタルシスを求める民衆の願いが、『三國志』とは異なる虚像としての「諸葛亮像」
>に結実していると捉えることはできないのでしょうか。こうした文脈で考えていくと、
>『三國志演義』における諸葛亮像も、歴史のなかで形成された「虚像」として、その
>「虚像」が形成される理由を検討してみる必要が生じてくるでしょう。
>また逆に、陳壽の著した『三國志』に基づく諸葛亮像は、すべて正しいのでしょうか。
>『三國志』もその一つである二十四正史は、中国史を研究する際の基本資料となっ
>ていますが、その史料的価値は絶対ではなく、『三國志』も一定の政治的意図を
>持って編纂された二次史料に過ぎません。陳壽も、当然、ある意図を持って諸葛亮
>伝をはじめとする『三國志』を著したはずです。
>となれば、陳壽の描いた通りの諸葛亮像をなぞるだけでは、陳壽以上の三国時代
>の認識をすること、言い換えれば、陳壽の意図に添った三国時代の理解を超える
>ことはできないと思います。
>かつて内藤湖南は、自己の政治的抱負と重ね併せながらも、独自の見識に基づい
>て、自己の中国史理解の枠組みのなかに諸葛亮像を描きました。その顰みになら
>いつつ、歴史研究者としての独自の三国時代観察のなかに、自分なりの諸葛亮像
>を描くことを試みてもよいのではないでしょうか。


 第2段落の『演義』に対する見解には首肯できない部分もありますが、第3段落などは、
ある歴史研究者の史料に対するスタンスが窺えて興味深いです。
 そして、渡邉氏は自分なりに諸葛亮の「実像」を描き出そうとしているわけですが、そ
の「実像」についても次のように言っています。
 
>第三章では、歴史研究者としてのわたしが考える諸葛亮の「実像」を描いていきます。
>わたしにとっては、これが諸葛亮の「実像」なのですが、三国時代への歴史観が異なる
>他の研究者から見れば、これも「虚像」の一つに過ぎないのでしょう。そうした相対性を
>含みながら、自己の歴史観を表現することも、歴史の醍醐味なのではないかと考えて
>います。


 意地悪く読めば、学界に対するエクスキューズとも取れますが、ここは素直に研究に
対する真摯さ・謙虚さが現れたものと取っておきましょう。個人的には更に踏み込んで、
歴史研究とは「事実」に辿り着くために為されるものでは無い、とも読めるんではないか
と思います。じゃあ、何のためにするのか、と言われると結論は持ってないんですが。
 最後に大きな不満を一つ。参考文献は、本文と注に幾つか挙げられていますし、本
書のもとになった渡邉氏の論文7篇も挙がっています。しかし、基本的には
中林史朗・渡邉義浩『三国志研究要覧』(新人物往来社、1996年)にブン投げられている
のは如何なものかと。
 確かに同じ出版社から同時期(といっても1年ほどタイムラグがありますが)に刊行さ
れた本ではありますが。この点は誠実とは言い難いかな、と。まあ、この『諸葛亮孔明』
が所謂「一般書」の位置づけであるのを意識したのでしょうけど。実際、本書出版から
10年経った現在、『諸葛亮孔明』は、Amazonで新刊が定価で手に入るのに、『三国志
研究要覧』は2倍以上のプレミアが付いてしまっているし。
 もう少し書きたいことがあるのですが、それは後日。
         → 08.10.11 蛇足(其一)

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